滋賀県 彦根ゲストハウス無我 ママさんのブログ

漂泊の旅・第二の故郷、としての【宿り】の場所を作っていきます。宿泊される方の思いをしっかり見つめて、模索する日常のあれこれを記します。

東日本大震災から7年

当時テレビで見た、

津波で母親を亡くした中学生の女の子の言葉が忘れられない。

「もっとお母さんと一緒にスーパーへ買い物に行きたかった」

私は、打ちのめされた。

今でもこの衝撃は心の中にずっとある。

ありふれた日常の簡単なことが幸せであったのだと、

気付かされた。

実家に帰ると、母親と必ずスーパーで買い物をする。

いや、母親とスーパーで買い物をするために、帰省する。

私の母に、この女の子の話をしようかと思うが、

していない。

母も私も号泣すること間違いないから。

そうか、

この女の子はすでにどこかでおかあさんになっているかもしれない。

自分の子供とスーパーへ買い物に行っているかもしれない。

7年という月日が流れたのだ。

営業時間以外のお仕事

営業時間以外のお仕事の一つ、
 
「取材を受ける」があります。
 
先日は彦根市内の滋賀県立大学の学生さんから依頼をいただき、
 
卒業論文のためのインタビューを受けました。
 
ゲストハウスにおけるマナーについて。です。
 
なぜこれに着眼したのか、、
 
実際ゲストハウスに泊まってみたことがあるのか?、、
 
などなど、
 
お答えする前にこちらもインタビュー。
 
確かに、初見で相部屋で共用部分が多い上に、
 
多国籍であれば習慣や価値観が違い、
 
マナーの良し悪しが気になるのですね。
 
当方では、出来る限り注意事項の貼り紙は少なく。
 
口頭でオリエンテーションの際に必要なルールは説明。
 
今までゲスト同士の深刻な苦情はなかった。
 
などなど、お答えしました。
 
マナーというとネガティブな捉え方をしがちですが、
 
是非日本人も学ぶべきという姿を外国人に教わることもあります。
 
ゲストハウスという社交場(古いコトバかな?)で、
 
大いに人間観察や感動を体感して欲しい。
 
ってことも、
 
インタビューを受けながら思い浮かんだので、
 
お話ししました。
 
今回の学生さんはブレザー姿で挨拶もきちんとでき、
 
我々との会話もスムーズでした。
 
ある資料をお見せすると、
 
サッと自分のノートに題名をメモ書きしたのです。
 
スマホで写真を撮りたいところですが、
 
この場合はそれはNGですから。
 
とても優秀な印象を受けました。
 
卒業論文がどのようにまとまるのか楽しみです。
 
観光に携わる仕事に就きたいと語ってくれた、
 
彼女の将来も楽しみです。
 
営業時間外のお仕事とはいえ、良いエネルギーの放出、良い刺激、
 
なので、全く苦痛ではありません。
 
あ、人によるかな(笑)。
 

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吸引力

先日のことです。

ご近所さんが、無我へ飛び込んでみえました。

娘が産気づいた、車を出してくれないか、と!

かなりパニック。

あいにく、

ウチの車は出払っており、タクシーを呼ぶ。

タクシーの運転手さんは、

産まれそうな人を乗せるには、本部の許可をとる必要がある、、、

押し問答。

「いいから行って」

ウチのオーナーの一言で発車。

無事産院に到着され、たちまち産まれたそうです。

よかったよかった。

後日、友人に、

===無我はそういう案件を吸引する===

と笑われました。

24時間365日ほぼ、

このあたりにいますので、

ご活用くださいませ。

魔性の女

魔性の女、周りにいらっしゃるでしょうか?

私のこれまでの人生の中で、二人いました。

そして新たに、もう一人認定されそうな気配が。。。

共通点 ①男の人の人生を狂わせる

            ②頑張り屋

            ③タレ目

            ④満員の東京ドームでも目を奪われる美しさ。そして一生目に焼き付く美しさ。

            ⑤不幸がつきまとう

私が小学生の頃、近所の高校生のお姉さんの家に用もなく現れるようになった担任教師。

かなりおじさんにみえたその教師は、「なんか心配で」と言ってやって来て、お姉さんの

家族を困らせていた。普通の家に「鶴」がいるようだといわれるくらいお姉さんは美しかっ

た(例えが昭和を感じますね〜)。子供心に、あのおじさん先生は「狂ったんだ」と思った

ものだった。この顚末は、どうだったのか。今、母に訊けば分かる気がするが、、、、やめ

ておこう。

もう一人は、私の親戚のお姉さん。「月」、満月が微笑んでいるように美しいと、子供心に

思っていた。このお姉さんも、就職した先のかなり年配の男性上司が、「なんか心配で」と

送り迎えをするようになってしまい、色々な人を困らせたと聞く。

なんか心配になる、って、今風に言えば「アウト」と同義なのでしょうか。

魔性の女は別格。

美人、美女、って言葉が安売りすぎて嫌になる。





春の始動

オーストラリア人のバックパッカーがチェックアウトしたあと、
 
滋賀県立大学の学生さんから卒論のインタビューの依頼の電話があり日程調整。
 
そのあと、オーナーの旧友のS氏が突然訪問。
 
10年ぶりの再会とのこと、私は初見でありました。
 
トントンと、ゲストハウス無我での読書会が設定されました。
 
2018年4月12日(木)13時〜 詳細は追ってお知らせ致します。
 
S氏がおみえになる前に、図書室の造設が間に合ってよかった〜
 
春は始動しています。
 

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無我夜話⑤

無我夜話⑤
 
 
 
先日の夜は吹雪。
 
本日宿泊のリピーターさんとコタツでおしゃべり。
 
近況報告、バブル世代の話、オリンピック、将棋、などなど。
 
岬の突端にいるような、古民家のガラス戸を叩く強風。
 
この強風は冬の名物。
 
日本海側が荒れた日の、琵琶湖を渡る強風です。
 
にも負けずちょっと大声でおしゃべり。
 
オーナーが外へ出てアルミ雨戸を閉める。
 
これも強風の日のいつもの風景。
 
このリピーターさんの凄さは、普通の人、であること。
 
奇をてらうこともない、濃いわけでもない、狂気性もない。
 
どんな人にも親和し、楽しんでおられる。
 
どの世代でも、素直さって大切だと思い知らされる。
 
無我の偉大なリピーターさんです。
 
 
 
 
 
                                ↓無我の庭のアオジ。餅のカケラを食べています。↓

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リニューアルオープンのお知らせ、並びに仕事復帰した女将の闘病報告。

2017年10月に子宮筋腫+腸切除の手術をして4ヶ月が経過しました。いろいろ(注1)ありましたが、復調してきました。ただの子宮筋腫でしょ、って思われがちな病気ですが、個人差があるようで、私にとっては大変な闘病の日々でした。盛りだくさんのエピソードがありますが、医療的な記載が多くなりますので、苦手な方は(注1)を見ないようにしてくださいね。
 
これまでに、お見舞いのお言葉などをたくさんいただきました。常連客の方々を始め、御近所の方々の恩情(何か手伝えることがあれば言ってね、など)や、異業種の方々も快く業務的な配慮をしてくださったりしました。中でも調剤薬局の薬剤師さんは御自分の実体験から同情してくれたようで、親身なアドバイス(長い目で看てあげなさい、など)は看病するダンナの心の支えになっているようです。実際お立ち寄りしてくださった同業者の方々は、市内のホテルの社長を始め、遠くは沖縄の離島のゲストハウスのオーナーも立ち寄っていただいたり、中には鍋料理を作りに来てくださったゲストハウスのオーナーさんもいました。正直、思ってもいなかった数の励ましです。皆さまの人生の一片に我々が存在しているのだと思えて光栄です。お忙しい中、さまざまなメッセージをくださったこと、御礼申し上げます。
尚、休業期間中に無我の御利用を検討されていたお客様においては、御期待を叶えられなかったことをお詫びいたします。
 
2018年2月9日から私・女将が仕事復帰し、営業再開しました。ひそかに(笑)古民家の共用スペースもリニューアルしており、我々の人生観が見える空間になったと思います。直球な魂のやりとりにお応えできますよ。 これからも益々よろしくお願いいたします。
 
(注1)
☑︎3年程前、手術適応と指摘されながらも、二つ返事では応じられなかったのは、人生で二度目の全身麻酔への躊躇のほかに、筋腫を分身・同士のように思っていたから。そんなことを思っている間に、筋腫は巨大化し強度の貧血を引き起こし、日常生活に支障を及ぼすようになっていた。
☑︎手術の決心がついた決定打は、無我に宿泊された熊本地震の災害ボランティア経験者の方の話を聞いたこと。被災地のガレキやゴミの処理の壮絶さが、己自身に投影された。
☑︎決心がついたから、さあ明日手術ねというわけではなく、手術に備える治療などで半年以上は経過をみる日々でもあった。
☑︎肉親や友人にも不測の事態や不幸がこれでもかとばかり重なった。これも壮年期の宿命かと受け入れつつ、同時進行しつつ、かといって充分に応じ切れない病身をなさけなく思う日々でもあった。
☑︎当初、手術は腹腔鏡下の予定だったが、開腹手術に変更された。私自身二度目の手術であり、腹腔内の癒着が相当酷かったためだ。この変更はよくあることで、ほぼ100%想定内だった。
☑︎想定内といえば、腸の切除も然り。産婦人科医(担当医)と消化器外科医のコラボとなった。
☑︎約9時間に及ぶ大手術となり、担当医は退院まで毎日「壮絶だった」「最高峰といえるよ(=大変な手術だった)」と言われ続けた。困難な手術を引き受けて、やり遂げてくださったこの外科医に出会て私は最高に幸運だった。
☑︎手術が終わって、手術室からベッドで退室する時、ダンナの泣き叫ぶ声を聞いて「ああ手術終わったんだ。生きているんだ私。」と認識した。
☑︎しかし、手術創の痛みが強く、案の定、硬膜外麻酔は効かず、カタボン15/hで循環血液量を維持しているので誰も鎮痛剤を追加してくれず、このおとなしい私(笑)が、唸り声をあげて夜を過ごす。大部屋なのに。死んだほうがよかった、と泣いた。
☑︎待つことほぼ一日経ち、「かわいそう」と言ってくれる人が現れた。その人はペンタジンの入った注射器をすでに持っていた。その痛み止めはよく効いて、痛みのレベルが格段に下がった。念願の鎮痛剤を射ってくれただけでも有難いのに、かわいそうとまで言ってくれたその人は手術翌日の夜勤のナースだった。谷底に落ちたとき助けを求めて叫んだが、体力も失せるから諦めていたときに手を差し出してくれた救世主に出会うことができた。
☑︎ペンタジンはよく効いたが、悪夢という副作用のおまけ付き。その内容は文章化不可。
☑︎術後食事開始の途端に、サブイレウス。絶食三日で自然治癒。
☑︎術後三日目、来てもらっていた実家の母が体調を崩し休日診療所に受診。
☑︎術後四日目、台風で周辺は河川氾濫の危機。ツイッターをみると近所の人が自主避難していると知り、夜中に連絡するとダンナも母も熟睡。体調の悪い私の母を負ぶって浸水の町を彷徨うダンナを想像。ダグラス窩ドレーンを引き回しつつ、展望テラスで深夜を過ごした。
☑︎術後五日目、ダグラス窩ドレーンは抜去され、シャワーを浴びる。術後からアイスノンを枕にしないと寝付けないようになっていた。看護師時代もそういう患者さんをたくさんみてきたが、自分もそうなっている不思議。
☑︎術後六日目、体調を崩していた母が同じ病院に緊急入院した。むしろ私はホッとした。ダンナには短期間に二回も入院手続きをしてもらったことになった。ちなみに私の父はアッと言う間に隣県の自宅へ帰っており、私の術後の経過も母の入院も見ていない。が、この立ち位置は結果的に好判断だったと多方から高評価だった⁉︎ それはどうであれ、緊急時に「人」は出る。
☑︎退院に向けて、そう、帰ってから一体どうやって食事の準備をしていくのか。宅配サービスを検討、ネットでにらめっこ。地方都市の不十分さを痛感するばかり。もう一つ、
私の入院中にしておきたかったことが、、家人がお世話になっているこの病院のがん相談支援センターの認定看護師さんとの面談。私の入院中のプライマリーナースにお願いして設定してもらった。一年ぶりに話をするのだが、この認定看護師さんの面影に何かの縁を感じている自分である。
☑︎術後十二日目、退院。心配されていたアレルギー症状が退院後出て、再度救急外来受診した。
☑︎現在、術後四ヶ月、食事量の調節の可否で体調が左右されるが、いつもダンナに相談しつつ回復へ前進中。 以上。
 

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