奥州・安達原で行き暮れた回国行脚中の那智の山伏・祐慶の一行が、家を見つけて宿を乞う。
家主の里女は一旦は断るが、たっての願いに根負けして彼らを家にいれる。
家の中には見慣れない糸繰り車に目をとめた祐慶が訊ねると、
女はそれを回して糸を繰りながら、自分のような賤しい身分のものが扱う器具であること、
辛い浮き世の業への執着を嘆いた。夜寒を凌ぐため薪を取りにいくと祐慶に告げるが、
留守中決して自分の閨(ねや)を覗かぬよう念を押して女は出掛ける。
しかし、従者は我慢できず祐慶に戒められながらもついに覗いてしまう。
するとそこには夥しい死骸の山。慌てて逃げ出す祐慶たちを追いかける鬼と化した女。
渾身の力で祈り伏せると、鬼女は弱り夜嵐の音に紛れて姿を消す。
これは、能の演目「黒塚(くろづか)」で「安達原(あだちがはら)」ともいいます。
極貧がテーマですが、信頼関係は細く手摺りのない橋の上を渡るようなもので、
少しの思いやりの無さで一気に谷底に落ち、人の卑しさが露呈される怖さを見ることができま
す。
人には見られたくない閨(ねや)=寝室、が心の内にあります。
無いと言われても、あるはずだと思うようにしています。
生きていくには、死骸の山を築いてしまいます。
鬼なのに普通の人でいようとすることに、私はいじらしさを感じてしまいます。
能の中で、私が一番大好きな演目。20年程前になりますが、福島県二本松市にこの謡跡
(能楽の謡曲の史跡)があり、鬼の窟を拝見したことがあります。
3年前には、彦根市の隣の市でこの演目を観劇することができ、幸運を感じました。
能楽は気になっていますが、なかなかストライクな演目に巡り合いませんから。
旅。庵。閨=寝屋。
私の宿りに対する核をなしているものがこの黒塚です。
いつか、この思いを書きたかったのですが、
コロナ戦の今に整理しました。
世の中が乱れ、生きるためになりふり構わずとなった時、
「恥ずかしさ」や「後ろめたさ」が良いベクトルに引っ張ってくれることを願います。
旅が出来る世の中になったら、私(鬼女)に会いに来てくださいね。
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