自治会長の仕事を手伝いつつ、思い出したことがある。
三年程前、町内での自宅葬(独居の御老人であった)のこと。
急な他界であったことや、身寄りが遠方の親戚のみであったこともあり、
町内の十数名程が御自宅へ集まり、お坊さんを依頼しお経を上げてもらい、
翌日親戚一名と民生委員で火葬場に行くところをお見送りして【葬儀】は終了。
主人と今でもよく語る『心に残った葬儀』である。
表現が不謹慎かもしれないが、時代劇の庶民の長屋の葬儀のようであった。
はっきり言って、親戚よりも町内の人たちとの関わりの方が濃厚であったはずなので、
その濃厚な人たちに自宅で手を合わせてもらう方が、理に叶っている。
ウチにもゲストハウスでイベントの時にその御老人にお越しいただいたり、
そのお礼だと言って草むしりをしてくれたこともあった。
町内の人ばかりで、ちょっと思い出話をしてお茶を飲み、
準備も含めて二時間くらいで葬儀は終了した。
葬送というものの本質なんて考えたこともなかったが、
これを経験させてもらったことで、
このシンプルさこそ葬儀の基準になってほしいと思うようになったのである。
コロナ禍のため、近親者であっても最後の看取りや葬儀などの制限があるご時世。
感染拡大防止が優先されて、
諦めなければならないことや我慢することが増えて、
やりきれない方も多いと察する。
が、果たして「増えた」のであろうか?
形作られたセレモニーに外れないことが安心、幸せだと固定観念をもっていただけ
ではないか。
これを機に、人生の最期を想像してアップデートしてもいいと思う。
例えば、リモートで自分の最期のどの時点まで誰に見ていてもらおうか。とか、
リモートでこの人と最期まで関わりたい。とか、
なんて描くことは可能だ。
今の自分には切迫していないが、
明日かもしれない、
というのが冗談じゃないご時世。ふう〜